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東京錦陵会 会長就任のご挨拶

2022年12月

東京錦陵会 会長  末本利樹


 会長を引き継ぐことになりました末本利樹です。書面による選任という初めての形になりましたが、総会開催がままならない中での選択であったことをご理解ください。

 会長を引き継ぐにあたり、コロナ禍のこの3年間、会の維持、運営に苦心されてこられた古門前会長、ならびに長野幹事長には改めて感謝申し上げます。

 まず、簡単に自己紹介いたします。生まれは昭和28(1953)年の69歳、生家は当時京都郡でしたが今は行橋市になっています。とは言ってもすでに築90年ほどだった生家は数年前に処分してしまい、今は何も残っていません。昭和47(1972)年卒で、平尾台の麓に近い長峡中学校出身です。



 東京錦陵会の年譜をたどれば、1961(昭和36)年に諸先輩のご尽力でこの会が発足しています。それから61年です。どういう趣旨で先輩方がこの会を発足させたのか、今となっては詳細をうかがい知ることはできません。

 明治41(1908)年、九州から開通して間もない山陽本線、そして東海道本線を乗り継いで東京を目指していた「三四郎」は途中一泊した名古屋の旅館で、宿帳に「福岡県京都郡真崎村 小川三四郎」と書きます。夏目漱石の三四郎の冒頭の部分です。

 三四郎のモデルは旧制豊津中学の大先輩で犀川出身の小宮豊隆先生(身近なところでは校歌の作詞者、1884〈明17〉~1966〈昭41〉、漱石の弟子、独文学者、芸大前身の音楽学校長も歴任)と言われています。そのころは、小宮先生のように郷里京都郡から東京へ出てくる人は非常に少なかったのだと思います。

 東京錦陵会発足の昭和36年、終戦から16年、日本は高度成長期に入ろうとしていました。この時期に至って就職や進学などで東京に出てくる同窓生の数がだんだん増え、その結果東京錦陵会の発足につながったのではないかと想像しています。


 そう考えますと、地元で生まれ育ち、そこで生活する人たちの地元に根ざした地元の組織である地元同窓会と、東京といういわば未知の土地にやって来た人たちの組織である東京の同窓会は、自ずと意識も役割も異なるわけです。

 私は昭和51(1976)年に就職でこちらに来て、47年目になりました。

 地縁、血縁、人脈といった生活の基盤に乏しい東京で、ハンディを感じたことも多々ありましたが、そんな時に時々顔を合わせる同級生から随分元気をもらってきました。

 だいぶ数は増えてきたとはいえ、まだまだ数少ない同窓生が少しでも助け合い、励まし合い、そしてリラックスできる場があるということは、私たち東京圏に出てきたものたちにとってはとても貴重なことだと思います。

 東京の同窓会の一番の役割はそんな場を作ること。「なにを今頃」と言われそうですが、こんなことを今思っています。


 就任にあたり、これまでこの貴重な同窓会を作り育てて来られた諸先輩の方々に改めて深く感謝いたしますとともに、これからの時代を支える若い方たちにこの会の更なる発展への寄与を期待しています。決して仕事や生活の負担にならない範囲で、楽しんで会の運営や行事にご参加いただければと思いますし、その機会を増やしていけるよう努力したいと思っています。

 これからの同窓会運営にみなさまのご協力とご支援をよろしくお願いいたします。


 同窓会へようこそ。一緒に楽しみましょう。

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