今また注目される名著
「生物と無生物のあいだ」 福岡伸一 著
S40年卒 門田睦雄
2007年に初版が発売され、分かり易い例えを交えて難解な分子生物学をエキサイティングに解説した本書は、科学書でありながら第29回サントリー学芸賞(2007年)と第1回新書大賞(2008年)を受賞した。新型コロナ禍で世界中からウイルスが注目される今、この本はカミュの「ペスト」と共に再び書店に平積みされている。その中身を軽く紹介しよう。
第1章 ヨークアベニュー、66丁目、ニューヨーク
章タイトルは野口英世が研究拠点としたロックフェラー大学の住所で、彼はここで梅毒、ポリオ、狂犬病、トラコーマそして黄熱病の病原体を発見し、病原体ハンターと呼ばれた。しかしそのすべてが間違っていたという衝撃的事実の紹介で本書は始まる。彼が研究に使ったのは光学顕微鏡で、1ミクロン程度以上である細菌(バクテリア)は見えるけれど、それより小さいものは見えない。そしてこれらの病原体は、当時はその存在が知られていなかったウイルスで、バクテリアよりはるかに小く、電子顕微鏡でなければ見えないものだったのだ。
私も二度ほどセントラルパークに隣接するこの大学を訪問したことがある。23人のノーベル賞受賞者を出すほどの名門であり、野口英世やこの本の著者の福岡伸一氏が籍を置いたことに思いをはせ、小ぶりなこの大学を興奮して見学したことを思い出す。
第2章 アンサング・ヒーロー ~ 第3章 フォー・レター・ワード(4文字の言葉)
この章ではロシアの研究者ディミトリー・イワノフスキーがタバコモザイク病の病原体として、大腸菌などよりずっと小さいウイルスを発見する過程を述べる。彼は病気の原因物質を含むと思われる液を、バクテリアが通り抜けない素焼き陶板のフィルターでろ過し、それをタバコの葉に塗っても病気が発生することから、バクテリアよりも何かもっと小さいものが原因かもしれないと考える。この過程から科学者の推理方法や実験方法の基本を知ることが出来、大変印象に残る話だ。
そしてこの章でウイルスが一切の代謝をしないという「無生物性」を有しながら、他の細胞に寄生することによって、自らを複製することが出来るという「生物」の特徴も合わせ持つことを解説する。本書のタイトルはウイルスのことなのだ。
当時既に遺伝子というものが存在する予測があり、一般的にはそれはタンパク質に違いないと想像されていたが、オズワルド・エイブリーという学者が、予想に反して遺伝子はDNAであることに気付いた。DNAはA,T,G,Cという4つの塩基からなることは分かったが、こんな単純なものでは複雑な遺伝情報を伝えられると誰も考えなかったし、エイブリーにもその仕組みは分からなかった。このA,T,G,Cが3章のタイトル・フォー・レター・ワード(4文字のことば)となっている。
遺伝子に関してはDANの発見者とされるワトソンとクリックがあまりにも有名だが、福岡氏はオズワルド・エイブリーこそがアンサング・ヒーロー(縁の下の力持ち)であると紹介する。彼はノーベル賞を受賞することなくこの世を去るが、ロックフェラー大学の人達はこのことを「科学史上もっとも不当なことだ」と憤る。
第4章 シャルガフのパズル
エイブリーと同時代の科学者シャルガフは、DNAの構成要素のA,T,G,Cという4つの塩基を分析し、AとT、GとCの含有量が等しいことを発見するが、その理由はなかなか分からない。これがこの章のタイトルだ。
このパズルを最初に説いたのがワトソンとクリックだ。DNAは二重らせん形状で、二本の紐をA,T,G,Cの塩基が繋ぐ。AとT、GとCはペア構造を取っており他とは結び付かない、これこそDNAが複製できる仕組みだと解明した。単純ながら見事に諸現象を説明できるモデルだった。この功績は生命科学の金字塔となり、ワトソンとクリックはノーベル賞を受賞する。
PCRはDNAを増殖するマシンだ。このマシンによってDNAの研究は大きな進歩を遂げる。新型コロナの検査に用いるPCR検査もこのマシンを使う。数ページを使ってこの原理を説明しているが、その仕組みは単純ながら実に巧妙なことに驚く。
第5章 サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ
PCRマシンを考案したキャリー・B・マリスはノーベル賞を受賞する。彼は安定した研究者ではなく、研究室を渡り歩くサーフィン好きのポスドクだった。
この背景にある米国の大学と研究者の関係を福岡氏は「貸しビルとテナントの関係」という。大学は研究者が稼いだグラント(研究費)から一定割合(かなり高い)を吸い上げ、研究スペースや光熱通信やセキュリティーなどのインフラサービス及び大学のブランドを提供する。一方日本の大学は講座制で教授から研究生に至る階級制だ。私が設計担当した沖縄科学技術大学院大(OIST)では、日本において米国型を実現し、日本の大学を沖縄から変えることを目指した。
第6章 ダークサイド・オブ・DNA ~ 第7章 チャンスは準備された心に降り立つ
この章では、二十世紀最大の発見であるワトソンとクリックによる二重ラセン構造の発見にまつわる疑惑を紹介する。この大発見は、DNAのX線構造解析を行っていた女性科学者ロザリンド・フランクリンが、既にDNAの構造をあらかたつかんでおり、彼女のその報告書を二人が盗み見て大きなヒントを得た、という疑惑だ。福岡氏はワトソンの著書にあるエピソードのさりげない文章に注目し疑惑の真偽を推理する。この辺りはまるでサスペンスドラマだ。
第8章 原子が秩序を生み出す時 ~ 第9章 動的平衡とは何か
福岡氏の研究分野の「動的平衡」について、「同じように見えながら中身は入れ替わっている生命体の現象」を、分かり易い比喩を交えて解説している。
第10章~第13章
タンパク質が基本となる20のアミノ酸をつなぎ合わせて出来ていること、あるタンパク質にはそれと相互作用するタンパク質が存在するという「相補性」について解説する。よく言われる鍵と鍵穴の関係がこれだ。また細胞の内部で作られる消化酵素などがどのようにして細胞外に送り出されるのかを例に、生命のダイナミックな動きの秘密を明かす。ここで述べられるトレーサーの使い方の下りでは、まさに自分が実験台に向かっているような気にさせられる。
第14章~第15章
ここでは生命科学の一つの方法である動物実験に触れる。その方法としてある遺伝子を人為的に破壊してその波及効果を調べる「ノックアウト実験」では、ノックアウトマウスが出てくる。聞いたことのある名前・ES細胞も解説し、動物実験という分野の存在を教えてくれる。実験動物施設の設計もやっている私にとって、動物実験をやる科学者の気持ちを推測でき、印象に残る章でもある。
この本では説明を理解するのに疲れたころを見計らって、息抜きに興味を引く話を持ってくる。第12章には「ニューヨークにあってボストンに欠落しているもの」が紹介される。福岡氏はロックフェラー大学の後にハーバード大学に拠点を移す。すなわちニューヨークからボストンに移動し、そこでボストンでは何かが無いことに気付く。それはニューヨークならどこでも感じる「かすかな振動」だった。ニューヨークのマンハッタンは巨大な岩盤の上にある街で、建物や構造物の基礎はこの岩盤に繋がっている。建物は風や内蔵する機械などで振動しており、この振動が巨大な岩盤に伝わり、岩盤も常に振動している。我々建築関係者はこれを「常時微動」と呼ぶ。岩盤の上には表土層があり、岩盤の微振動は表土層の固有周期に合う振動を増幅して地表に伝える。関東大震災で下町の方が山の手より揺れが大きかったのと同じ理屈だ。福岡氏はこのニューヨークの振動を身体で感じていたというのだ。
この本は難しい部分もあるけれど、それを巧みな比喩で分かり易く解説している。21世紀の科学と言われ、著しい進歩を遂げる生命科学を垣間見て、これからこの分野に親しみを感じることが出来れば、今後の生命科学関連の記事がもっと面白くなるだろう。
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