衛藤智浩(昭和55年卒)
自転車との出会いは、社宅【麻生セメント田川工場】にごっつい新聞配達用みたいな父の愛車でした。
それを、小学生だった頃で、サドルに座れないので、あの頃は三角乗り【ネットで探してください】していましたね。(今考えると、良く乗れたなーと思ってしまいます。)
その後、父が苅田工場に異動になった(バリバリの組合員だったからかな?上司をぶん殴ったためとか)タイミングの中学1年生になった頃に自分の自転車を買ってもらいいました。セミハンドルで・ちょっと前に流行ったフラッシャーは付いてないシンプルな自転車でしたが、めちゃめちゃ嬉しかった記憶があります。【毎日眺めて、ニヤニヤしてましたね】それに、自転車用のバックとか買いまくっていました。
その自転車も苅田中出身なら知っていると思います。自転車置き場から下の道路までは急な下り坂道になっていて、そこを下りていたら前輪後輪のブレーキワイヤーが切れて、そのまま真正面の家にぶつかる手前で、高橋英ちゃんが自分の自転車を盾に止めてくれました。命の恩人です。
その衝撃で自転車はスクラップになり、自転車がない生活が始まりました。
その後、豊津高校に入学し、最初は苅田駅から行橋駅経由バス通学していました。
計算高い父は、毎月の定期代と自転車価格を比較分析したんでしょうある日急に何段もあるスポーティーな自転車を購入してきました。(未だにどこの自転車を購入してきたのか不明。)
で、「明日からこれで通え!」と一言でした。片道17kmあり、途中坂道だらけで、絶句しました。
しかし、サッカー部で鍛えた筋肉はまだ衰えて無く、バス時刻気にしないことも、気に入って、自転車津学を楽しんでいました。
それから、上京してからは、東京の公共交通機関が発達しているため、自転車は札幌単身赴任時代に折りたたみ自転車が頑張ってくれました。
札幌でお世話になった愛車
そうそう、1回だけ高校同期長野S、O郷、H田、M島、K川とS田~と三浦海岸駅でチャリレンタルし、無謀にも三浦半島を周遊しました。結果は笑いと変な競争心で楽しい思い出です。
この仲間とは、小田原から箱根越え(江戸時代使用した林道)して、箱根駅伝の折り返し地点まで歩いたり、50歳超えてアホなことばかりやっていました。脱線しました。すいません。
現在はロードバイクを購入し、江ノ島、山下公園など、苅田港とはちょっと違う都会の海を満喫しています。
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