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「コラム」 回想録から、ラジオの応援

衛藤智浩(昭和55年卒)


 物心ついたときには白黒テレビは自宅にはありました。

 ウルトラQ、狼少年ケン、ひょっこりひょうたん島等を見てた記憶があります。

 その後、自分が小学3年生の師走のある日、父の呑み友達の坂本電気店の軽トラが、麻生セメント若山町9丁目社宅の自宅前に止まり、近所の方も集まってきたところで、徐に、坂本さんがカラーテレビを軽トラから降ろし、我が家に搬入しました。

 後日、お金もないのに、サングラスは何個も、学校の父兄参観があるごとに、スーツを仕立てる(幼少時は金融業していた祖父のお気に入りのお坊ちゃん育ちの)父が勝手に冬の賞与を大半使って購入したと、母が泣きながら話してくれました。

《よく、父から聞いたのは、地元の商店街で買い物しても、お金は払ったことはない》

 その年の大晦日は近所の方も集まって、紅白歌合戦をその父自慢のカラーテレビで視聴しました。悲しかったのは自分ちのテレビなのに、最初、自分は大人の後ろの席で画面が見えなかった。(途中で背中に般若と綺麗な花が咲き乱れていた父の親友が自分を抱きかかえて一番前に座らせてくれましたが〔笑〕)←自分だけには優しいエエ人。

※レトロオーディオ再生工場ヨネデンから引用。

こんな感じだった記憶。          

 話がちょっと脱線します。

 自分が生まれたのは、筑豊炭田で有名な飯塚市です。(飯塚病院)

 生まれて直ぐに、大分県の荻町の母の実家で過ごしていました。

 その後、福岡県田川市にて、父と住むようになりました。田川市はその頃炭鉱も閉鎖し、失業者も多く、皆さんの想像を超えるくらい治安も悪く、「橋の下には行くな!」、炭鉱独特の「ぼた山には近づくな!」、と。

 噂では、ぼた山掘削すると白骨死体が出ると言われていました。

 それから、父の転勤のため、小学6年生の秋に、北九州市小倉南区に近い工業地帯の苅田町に引っ越ししました。

(笑い話があり、引越荷物に「京都」と姉が書いていたので、京都(きょうと)に引っ越すと勘違いして喜んでいましたが、京都郡(みやこぐん)でした。。。。。。。)


 苅田町立南原小学校に転校し、初めての休み時間に、一番びっくりしたのが、同じ福岡県で全く方言《語尾》が違うことです。「こいつら、集団でふざけてるんか?」と真面目に最初は思っていました。

 今なら、筑豊弁、北九州弁とか、言いますが、あの頃は、知識も無く、何で自分の言葉が笑われるくらい可笑しいのか?まったく理解不能でした。

 また、直ぐにあだ名を付けられて、NHKで放送されていた新八犬伝が流行していて、登場人物の犬塚ケノから「ケノ」とつけられました。

 これも流行っていた「Sけん」という遊びは覚えています。校庭にSの字書いて、敵味方に分かれて、陣地から石かなんかを奪ってくる遊びを日が暮れるまで、無心でやってましたね。

 それ以外では、前の小学校は秋に修学旅行だったのですが、転校した学校は、春にもう終了していました。それは、一番の悲しい思い出でした。

「Sケン」図解 ※日本レクレーション協会から引用


 さて、本筋に戻ります。

 中学高校時代は、ラジオを聞きながら、勉強するのが普通の時代でした。

 自分は帰宅後すぐに晩飯食べて、就寝し、深夜に起きて、勉強するスタイルで、オールナイトニッポン、「パックインミュージック」を聞いて、その後はトラック野郎御用達の「歌うヘッドライン(?)」で終了の毎日でした。

 日曜日夕方は、柏村武昭「サテライトNo.1」という公開ラジオもよく聴いていました。

 それに、「ポップスジェット便」「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」~、いっぱいラジオ番組を思い出しますね。《リクエスト曲出して、葉書読まれたときは、興奮したのを覚えています。が、だいたい「衛藤」は、メジャーじゃないので部首の「ぎょうにんべん」で、後藤さんと間違えられたことも多々ありました。》


 現在、コロナ禍で、散歩することが多くなり、久しぶりにラジオを買って、周りに気をつけながら、散歩のお供で聴いています。

 スマホでもラジコで可能ですが、あのチューニングするときのザーザー音が懐かしく、昔ながらのラジオに、はまっています。

 皆さんも、自分の好きな音楽聴きながらもええのですが、久しぶりにラジオ放送聴いてみません?新しい発見もあるかも。


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